「はんじょうとは宇宙である」
本記事は、はんじょう氏の視聴者であることを前提に話が進められることを理解の上読んでもらいたい。
「はんじょうとは」について考えていこうと思う。
「はんじょうニヤニヤCH」というはんじょう氏のmadを投稿しているYoutubeチャンネルがあるのだが、2025/6/25に「はんじょうとは」という動画がプレミア公開予定であることが観測出来る。

この動画は当配信から二年後弱に配信予定である。シンプルだが面白い笑いのアプローチだ。
この「はんじょうニヤニヤCH」氏と本記事は関係ないが、僕が「はんじょうとは」を考えようと思ったきっかけになったので触れさせて頂いた。
若干ネタバレになってしまうが、「はんじょうとは」に対する解は無限に存在する。
私が生きている限りは。厳密に言うならば私が認識している間は。
何を言っているかは読んでいけばわかるだろう。
様々な答えを用意したので楽しんでもらいたい。
・はんじょうとは「配信者」である
そもそも配信者とはなにか明らかにしておきたい。
「配信者とは、テレビ・ラジオ・新聞・インターネット回線などの通信媒体を使って情報を配信する人の事を指す。」(ピクシブ百科事典より)
(正確な引用では無いかもしれないが、小規模なブログなので許してほしい😢💦)
はんじょう氏はtwitch,openrecやYoutube等サイトで配信活動を行っているので上載の配信者の定義には当てはまる。
また、彼は配信活動で収益を得ているし、恐らくその配信者としての収入で生活をしているのでれっきとした配信者だ。
はんじょうとは「配信者」であるといっていいだろう。

いきなり自明な事実に対して定義などを持ち出し話を展開していく様子に読者はイラついただろうか?本記事はそんな面倒くさい記事なので覚悟して頂きたい。
・はんじょうとは「ヒーロー」である
ヒーロー(hero)とは勇者や英雄を指す言葉である。
僕の知っているはんじょうは勇者、英雄といった言葉で形容できるような人物ではない。だが、日本語とは素晴らしいもので
「レトリック(修辞学、美辞学)」という概念がある。
今回焦点を当てるのはレトリックの一つの「誇張法」だ。
その名の通り、誇張法は物事を大げさに表現することで受け手の心により強く訴えかける技法だ。
例えに最近の言葉を挙げるなら「神」がそうだろう。
本来神は絶対的存在を意味するものとして使われることが多かったが、最近(?)は「神がかっている」や「神ってる」などまた違った意味合いで使われることがある。
「神がかっている」の「神」は絶対善といったものではなく「すごい良かった」程度のことでも使われるだろう。が、「神」という莫大なエネルギーのイメージを持つ言葉をあえて使うことで言葉に面白み、重みが生まれるのだろう。
「今日の配信はとても面白かった」よりも「今日の配信は神回だった」
のように言葉を選択することで文章が一段階"良く"なる。
話が大きくズレてしまったが、こんな感じだ。
せっかく「はんじょうとは配信者である」と証明したので使ってみよう。
彼は配信毎数千人、ときには一万人もの人を集めるのだが、そんなに人が集まるのは面白いからであり、当然面白いコンテンツには笑いが生まれる。
婉曲的になってしまったが、要するにはんじょう氏は沢山の人を笑顔にさせているのだ。
一般的に勇気ある行動を取ったり、人に勇気を与える人のことを指す。
人を笑顔にさせることと人に勇気を与えることの共通項を見出し、誇張法的につなげることは出来るはずだ。
彼の視聴者の中には配信を楽しみに仕事や学校生活等苦痛を乗り越えようと思っている人がいるはず、このポジティブな動機を与えている点で共通している、といえないだろうか。

・はんじょうとは人である
そういえば、「はんじょうとはヒーローである」ことを証明した際、僕は彼が人だと思っていたし、それを前提に話を進めていた。
ソクラテスも言っていたように物事を説明する際、説明する者はそれがなんたるかを説明できるべきだ。「説明できるべき」までは僕は思わないが物事の再確認は大切なので「人とは何か」をまず明らかにしよう。
といっても人間の解釈は多様に存在するので困った💦
「1+1=2」問題が難関なのと同様に物事の証明で難しいのはその問題自体ではなくその問題の前提となる公理を安定させるのが難しいんですねー
まじで困った(笑)
繰り返す内容になるが、人の解釈は多岐に渡る。
とりあえず様々な「人」の在り方を洗い出してみよう。そしてひとつずつ証明していけばよい。
①ホモ・サピエンスとしてのヒト
余談だ。地球上には黄色や白黒(茶)など様々な肌色があるけれど、それらは全てホモ・サピエンスなんだ。生物学的には地球に人類は一種類しかいない。肌色なんて愚かな記号で優劣をつけないでね😢
②知能が高く、言語を有し、社会生活を営むモノとしての人
こんな感じだろうか。否、もっとあるのだが「こんな感じ」にしておきたい。
①ホモ・サピエンスとしてのヒト
ホモ・サピエンスについて調べていたら現生の全人類どころか旧人以降のカセキジンルイは全てホモ・サピエンスに分類できるということがわかった。
だからといってはんじょう氏がホモ・サピエンスであるという完全証明にはならないが、見切りをつけることも大切だ。
②知能が高く、言語を有し、社会生活を営むモノとしての人
ここで指す「知能が高い」は人全体が土俵になっているため、議論すべきははんじょう氏の知能ではなく、人の生物界における知能の高さだ。そして、それは自明だ。
また、はんじょう氏は日本語話者であるし英語も少しは読むことが出来る。
3つ目の特徴の「社会生活を営むモノ」とあるが彼は引きこもってゲームをしては叫ぶだけの人だ。社会的生産性がない彼は社会生活を営んでいると認めていいものだろうか。
はんじょうは人ではない🤔❓、、、、、、という冗談はさておき。
ここで指す社会生活とはそんな厳しいものと捉えなくていいだろう。
現代社会(少なくとも日本)では引きこもっているニートや痴呆の高齢者なども人としてカウントされている。ので何かと関わっていた、いることは社会生活とカウント出来るのだろう。
もしくは、社会生活を営んでいるか否かでは上記の人?らは人ではないのだが、人体を有していたり、ホモ・サピエンスだったり、言語能力があったり、と他の項目がだいたい当てはまっているからとりあえず人として認めているだけなのだろうか?難しい問題だ。
一部微々たるところで怪しい箇所もあったが、そもそも私達がはんじょう氏を直感的に人と捉えているので恐らく彼は人なんだろう。やっとQ.E.D.だ。

・はんじょうとは「賢者」である
はんじょう氏を知る方なら困惑しただろう。
証明不可、に感じるかもしれないがこれの証明は簡単だ。
砂山理論をご存知だろうか?
これと本質的には同じ理論で「ハゲのパラドックス」というものがある。
そちらのほうがユーモアがあって理解に易いかもしれないのでハゲパラの方の解説をしよう。

磯野波平氏をご存知だろうか?大体の人が知っているだろう。
僕は名前が思い出せなかったので「サザエさん 父」と検索してこの画像を持ってきた(若い人間アピール)
彼は言わずもがなハゲだ。
では、彼に髪の毛を1本足したらどうだろう? ハゲだ。
では、もう一本足したらどうだろう? ハゲだ。
では、もう一本足したらどうだろう? ハゲだ。
では、もう一本足したらどうだろう? ハゲだ。
では、もう一本足したらどうだろう? ハゲだ。
・
・
・
ハゲに毛を一本足してもハゲはハゲのままだ。がしかし、この作業を10万回繰り返したらどうだろう。
波平氏はハゲではないだろう。
では、どこを起点にハゲがハゲでない状態に変わったのか。
我々は髪の毛が5万本以上ならハゲ、といった基準を設けていない。が、基準は必ず在るのだ。
ハゲのパラドックスが訴えているのは、こういった人間の認識の曖昧さ、相対的な感性だ。
要するに全てはグラデーションなのだ。明暗も、陰陽も、貧富も、美醜も、発達障害だって。
認識は全て相対的なものだということを意識してほしい。
以上を理解したことを前提に話を戻そう。
「はんじょうは『賢者』である」
この議論で着目べきは「賢い」だろう。
まあ、この問題は誇張表現で感覚的に解決されているのだが、折角なので「全てはグラデーション理論」つまるところ「相対主義」の思想で解決したい。
はんじょう氏は関係者殆どから白痴の人間だと思われているに違いない。
しかし、この賢いか賢くないか、この基準、認識も相対的なものである。
環境づくりは多様に存在する。
彼を白痴と思わせる理由、環境を踏まえて否定形にすればよいのだ。
例えば、社会人の物差しで彼の知能を測っているから、彼を勉強の才能で測っているから相対的に馬鹿になってしまうのだ。
なので、比較対象を子供や赤ん坊、なんなら魚類にしてしまえば彼は賢い存在として認められるし、スプラトゥーンの上手い下手で能力を測れば彼は優秀になる(賢いとは少し違ってしまうが、、、)
理論上は全てのものは全てになる可能性を内包しているのだ。

・はんじょうとは「ハシビロコウ」である

はんじょう氏は配信上で顔がハシビロコウに似ているため、ネタ的にハシビロコウと言われることがあるが、僕は本気で彼がハシビロコウと証明しようと思っている。
ここから理論の飛躍?暴走?が一気に加速するので頑張ってついてきてほしい。
そもそもハシビロコウとは何か?この問いは今までの定義云々とは性質が異なる。
僕は認識が存在に先立つと思っている。というか、これは証明も反証も出来ない。
ハシビロコウの話は一旦おいておいて、「認識が存在に先立つ」問題を先に説明し終えたい。
現在の科学(古典力学)は「存在が認識に先立つ」の立場を取っている。
例えばりんごがあるとしよう。
このりんごは私が認識している、いないに関わらずここに在る、というのが「存在が認識に先立つ」(存在が認識の先にある)ということだ。
そして、僕の意見では
このりんごは私が認識しているからここに在る。
これが「認識が存在に先立つ」だ。
読者はどちらの意見を推すだろうか? 殆どの人が「存在が認識に先立つ」要するに現代科学の方を選ぶのだろう。
一つ勘違いしてはいけないのが僕は決して「存在が認識に先立つ」のが絶対だと信じているわけではない。
僕がしたかったのは、読者の思考の可能性を増やしたかったのだ。
この議論に(恐らく)是非はつけられない。「どちらもあっているし間違っている」が答えだ。「今の人類ではどちらが正しいか、間違えているかを証明できない」と言ったほうがわかりやすいだろうか。
ちなみに現代(一般的な)科学、つまりは古典力学では「存在が認識に先立つ」といったが、「古典」力学とあるように近年新しい科学が認められている。
それは量子力学。この世界観では「認識が存在に先立つ」が認められているんだ。
実感がわかないと思うので「認識が存在に先立つ」の身近な例を踏まえて説明してみよう。
例えば、ここに机があるとする。

この机を私達は様々なしがらみ(例えば言語、常識、机の前に椅子が踏まえてあるという環境など)によって机を机としか認識していないが、この机は座ることもできれば人を殺める道具としても使える。
要するに机は「机」という言語に閉じ込められているだけで、椅子にもハンマーにもなり得る、なる可能性を秘めているということだ。
「色即是空空即是色」という言葉があるだろう。あの言葉はこの性質を表している。
アリや赤ちゃんを想像してほしい。あれら彼らは果たして「机と呼ばれているもの」を机として認識しているだろうか?
もう一つ例をあげよう。
ここにレンガとピラミッドがあるとしよう。
我々人間の大人はピラミッドを世界遺産だなどと単なる大レンガの集積に価値を見出しては意味のない(いや、意味はあるのだが)馬鹿騒ぎをしている。
そして、またアリを想像してほしい。先程と同様にアリはピラミッドもレンガも同様に足場、地面としか認識していないだろう。いや、これも人間である僕の解釈で実際は分からないが。
このように我々が認識することで価値や意味、様々なものが我々によって生み出されている。「認識は存在に先立つ」について理解が出来ただろうか?
我々は「机」や「ピラミッド」など視覚的な凹凸に意味を見出しているが、本質的には全ては空虚で区別などつけなくてよいのだ。
さて、以上の話は「はんじょうはハシビロコウである」を証明するために作られたものだ。話を戻そう。
ここまで読んでくれた読者諸君ならもうこんな問題、証明は容易いのではないか?
というか、言葉で順序立てて証明する必要性すら失われた。
例えば、「はんじょうは人と呼ばれる本質的には空間の歪みだ。
ハシビロコウも同様に空間の歪みに過ぎない。」というように。Q.E.D.

・はんじょうは「宇宙」である
もう読者が好きに証明してくれて構わないが、僕だったら相対主義理論を使ってこう証明する。
はんじょうの肉体は絶対的な形を有していない。彼の肉体の認識は相対的だ。
はんじょうの肉体を血を含むものと定義するならはんじょうの血液成分が含まれた息を吸い込んだはんじょうの母親ははんじょうだし、同じ空気を共有している筆者もはんじょうである。空気を共有しているならば日本国がはんじょうだし太平洋もはんじょうだ。なので地球ははんじょうだし、太陽系も、ブラックホールも、銀河系も、超銀河団もはんじょうだ。
はんじょうは宇宙だ。

・はんじょうとは「تيار الموحلة」だ
もはやはんじょうを言語の枠に捉えることすら愚行だ。
تيار الموحلةはアラビア語で「濁流」を意味するがそんなことはどうでもいい。
なんせはんじょうは酒池肉林なブギーポップで豚の尿石が加藤純一の殴り書きとして規律したまんにゅうが陥没し理性的に解釈された母親の自慰行為と盲目007うるさい!母の露わになった胸を見つめる息子りんご赤茶子白痴ですか?だせえよ洞窟の眼差しイデアはもう死んだ徒弟ゾンビは8:30に漸くピーターパン・サタンシンドローム着地0時イレブンおれ様が俺様が俺様gおれsまあまおれはさまがおあkroreamaooおrewamなはんじょうがはんじょうしてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじょうしかしはんじょうが似や良いやはんじょうgamaooおrewamなはんじょうがはんじょうしてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじょうしかしはんじょうが似や良いやはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじょうしかしはんじょうが似や良いやはんじょうgamaooおrewamなはんじょてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうはんにょむにはんじよむ
「ㇶ
👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁👁
👁🧠👄🧠👁🧠👄🧠👄🧠👄👁
なのだから。
・(冗長?)はんじょうは「無ではないモノ全て」だ
「はんじょうは宇宙である」で終わったほうが良い気がしますが面白い話題なので少し続けます。
絶対的、最強かと思われたはんじょうですが、一つ人類の生み出した足枷により克服できないものがあります。
人類の生み出した足枷とは言語です。
最強はんじょうですが、無になることは不可能です。
はんじょうは絶対的存在になることは出来ないんですね。
なぜかというと、「絶対的存在」という存在自体が誤っているから。
そもそも絶対的というモノを我々が認識できている時点でそれは絶対的ではないんです。
なので、絶対的存在は「無」しかありえないという「存在しない」という「存在」が絶対的なものなんですね。
太字の時点で自己矛盾していることがわかります。
よって、はんじょうは「無ではないもの全て」なんです。
厳密には「全て−1」ですね
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
詭弁に詭弁を重ねていましたが哲学ってそんなもんなんじゃないかって思います(怒られそう😢)
正しければ正しいほど納得がいかなくなる。人間っていうのは正しくない生き物なんだろう。
なんてね。🐮では✋
私は記録中毒
日常の断片として営みを続けていたyoutubeがとりあえずスマホをぶっ壊してしまったことにより再起不能になりました。
夜道をPCを持って徘徊したくないです。
スマホをぶっ壊したのは僕の感情の発露(大)が原因ですがここ最近こうした感情の爆発が多くなっています。(👇スマホ壊した経緯)
今日も朝から他人に怒鳴りました💦宗教勧誘の女性別がしつこかったのと丁度前回の感情の発露を思い返していたときでイライラしていたため「大丈夫です😡」と大きな声を出してしまいました💦
以前自身の価値観がニュートラルで嫌な感情を無意識的に抑制していることを嫌悪したのをきっかけに感情的になってみることをしようと思いましたがうまくいきすぎている、、
そういえば僕の歩行に並走して焦燥感マシマシでなされた宗教勧誘に対して「大丈夫です」と2度唱えただけだったが、頭字節に「今急いでるんで(大丈夫です)」などと謂えばもう少し穏便に済んだかもしれないが僕は事実として急いでいなかったので言うことができなかった。うーん。
僕は数年間とにかく記録をしてきました。その媒体はノートやはてなブログ、最近の主だったものだとyoutubeなど、様々な形で継続されてきた行為ですがスマホ毀損に伴い記録しない生活をしてみることにしました。
ですが、一日も持たなかった。理由は不安にありますがその対象は情報の忘却と喪失にあるのではないかと自己分析しています。
僕はyoutubeを日記として機能させている面がありますが記録の対象は出来事、物質的な経験の情報処理だけでなく日々連続的に流動し続ける自我の保存でもあります。
(比喩として)今では必需な麦酒の始めての味のような、、僕の実感に基づくとyoutubeを取り始めたときや大学に通い始めたときと現在の差異など、またはもっと深層な自意識を記録することを目的としてやっています。
それらの動機は先の通り忘却と喪失への不安感でもあります。
また、記録というのは再出力とも言い換えられますがこれを行っている際しばしば日本語に感動することがあります。
例えばyoutubeをやっていて「神社」を「宗教的領域」とふと言い換えた瞬間がありました。こういうフリースタイルな喩が自身から生まれることがたまらないです。
フリースタイルという言葉を用いましたが、youtubeというか発話はそんな感じで本能的に比喩が生まれることが多いです。
それに対してはてなブログといった文章表現は日本語の感動が変わってきます。
例えばこの記事をタイピングしている間にもいくつかありました。「言う」「云う」「謂う」の違いを気になって調べてみたり、「毀損」と「破損」について調べてみたり、文章は発話と異なり推敲ができるのでgoogle検索などを用いて堅実に言い換えや類語の認知を広めていく感覚があります。
僕は未だ日本語に感動するし感動していきたいです、ウン❣
ところでスマホを使わなくなって日常からエロが若干消え去りました。それに阿吽と応じてオナニーの回数が減った気がします。
スマートフォンの画面越しのポルノというのは丁度良い幻想のような気がしていて生々しいがある種臨場感のない生き心地のない消費の形があるのではないか、なんだか心眼に相剋する女性器が最近グロくて、、💦
まあ正直出力していて実感がいまいち持てないというかオナニーの回数が減ったことすら明瞭じゃないのでふーん程度でお願いします。前後即因果の誤謬という概念もありますしね💦
そういえばスマホ破損のタイミングで眼鏡もぶっ壊してしまい視力が1から0.1に低下(1/10?ランドルト環の計算がムズい💦)したのですが、電車内で電光掲示板が見えず降車駅がわからない、やパソコンと目が近くなりすぎて扱いにくいなど悪影響が出ていますが雑魚情報です。
あとは芸術作品や精神疾患において俎上に上げられがちな定義問題(この作品芸術作品か、この私は疾患者かといった)ですが定義は資本主義の文脈等に必要とされた虚無な情報処理でしかなく個人においてもっと大切なものが皮層の奥にでもあるのになーと思ったりしました。
では✋
メモ
僕は社会が完成したものであると疑いを持たないがその完成は現状
冷笑のスペクトラムを無批判する🕊🕊🕊(未完成)
世の中にはキモいとされている物事が溢れているようです。
例えば「〜で鬱」「自称発達障害」「陰キャ・ぼっち」「MBTI」「エモい」など。
これらを肯定的に多用してしまう層がいる一方で彼ら彼女らを同じ人類として冷笑している層もいます。
この冷笑批判は台頭してからしばらくが経ち、だんだんサブカルチャーと(個人的には)見てもいいくらいの規模に成長してきましたようです。
よく言われることですし よく自分も思うのですが否定はいずれ肯定に巻き込まれます。
分析すると様々な原因が見いだせるのですが、まず、肯定のムーブメントはいずれ飽きられます。現在冷笑している人々は肯定派よりかは頭が良いというかメタ的な視点を持っているので既に飽きて、情報処理の遅い肯定派のムーブメント消費にイライラしているわけ(恐らく)ですが肯定派の人々もゆっくりと消費しているだけでいずれ無意識的かもしれませんが肯定をやめていくはずです。また、ムーブメントが起こって共感されればされるほど規模が大きくなっていくので相対的に冷笑派が大きなものになっていきます。
結局のところ冷笑も一種の肯定のムーブメントに落ち着くので冷笑を冷笑するムーブメントも生まれてきます。その場合冷笑は肯定側に自ずと回ることになります。
こんな一例でしかない分析をしたいのではないです。話を戻すと世の中でキモいと言われている表現は確かにキモイと言われるのは分かります。なので概ね冷笑派に同意です。が、僕が肯定派の人々を冷笑することは殆どありません。
僕は常に無批判派で在り続けています。
なぜかというと感情的になる必要性がないからです。というのも肯定派は別に悪意や加害性を持っているわけではないので,,,というのは欺瞞で純粋に僕が非常識だからです。
「〜で鬱」や「(自称)発達障害」などを定型どおりに使う人と関わったことが殆どありません。「〜鬱」「発障」「陰ぼ」はそれぞれ1人ずつくらいです。「MBTI」「エモい」などに関しては0人です。
他にも冷笑のモチーフとして使用される表現はあるようですが、僕が頭を捻って出てきたのは5つだけです。
一般的に人々が社会を知る場である中学高校大学のうち中学高校は専ら孤立していましたしクラスメイトの会話に耳を傾けることも基本なかったので社会が介入しません。
大学に入ってもそういう痛い発言をする人が周りにいないです。
僕はずっと現代社会ではなく限界集落にいるような生き方をしていますが、
🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊🕊
うーんでも冷笑の冷笑と高次に発展するもの 限界はあるし 述べるべきは冷笑が冷笑されることの要因に文化、環境の変化があることであったようだ即ち肯定派の流動であり肯定ありきの冷笑もそれは当然か
非常識が功を奏したな私 ですが非常に無力でもある土俵の外で土俵を見ずにただスマホしている人みたいな
現代社会人インテリ代表wとして生贄になっている 文化史
いや物事は全部パターンでしょ 人間は飽きるもの環境が変わるのでかならず価値観は揺らぐなど
SNSを断って良かったこと
2週間前くらいにLINEやX,Instagram,YouTubeなどのSNSをやっていたのですが、Youtube以外削除しました。
はてなブログも相互のコミュニケーションが可能なため慣用的ではないですがSNSに定義されるらしいです。はてなブログも削除していませんが滑らかさのために捨象で。
なにが嫌でやめたかというとSNSは害とされているのを鵜呑みにして嫌になっていました。正直情報の鵜呑みは自己嫌悪の対象ですが今となってはどうでもいいです。
いいねを気にしてしまう自分やなにかと暇を見出してSNSをとりあえず開く自分が嫌でした。確か一日に何百回かSNSを開いていた記憶があります。
他者承認を動機に行動するのがひどく醜く映ります。(ras)
でも嫌だからといってやめられるほど感情を合理で統御できないので負のスパイラルに陥ります。
あと はてなブログを広報するためにInstagramで記事を共有するのですがいくつかしていると当然反応の数が変わってきます。1つ目は❤8くらい。2つ目は❤5くらい。3つ目は❤3くらい。のように。
こうなると厄介なのが自分の創作に価値の変動が生じます。それは❤に相関して。
で、❤3の記事は価値が低いのではなく価値がゼロになります。
まずいですね。創作意欲もなくなってきます。他者依存のコンテンツ消費の不安定さ。
SNSに嬲られ翻弄されたことで実感を持って理解しました。
などなどあってとりあえずSNSを消すことにしました。
上記はSNSをやっていたときに気づいていたのではなくタイピングしている今とかに思いついているものなので漠然と嫌でSNSは断っています。
SNSは麻薬のようなもので評価されると嬉しくて頑張れますが、反面依存している人間が評価されないと頑張れなくなります。で、鋭い人なら気付いているかと思いますがバズることってあまり良くないかもしれません。
当然バズるのは気持ちいいです。バズった反動でその後創作意欲が湯水のように湧いてくるかもしれません。だがしかし暫時に過ぎず、危惧すべきはブーストが終わったあとですよね。僕の経験論を展開させてシミュレーションすると一生バズり続けるなんて不可能な状況で創作を持続させられますか。
短期的に過激な増幅はさせられるがその後潰れるのが麻薬と明喩した所以です。
なんなら依存先が(恐らく)意思を持った予測不能な他者なのでその点麻薬よりたちが悪いです。と言っていますが所詮大衆は単純ですし集合的無意識もあります。一個尖らせれば多分持続して評価されます。
ところで密かにSNSを再開しつつあります。またSNSではてなブログを共有しているのですが早速数値の評価が気になっていて危ないです。気持ちいいけど良くないです。
まあ、このことを❤3とか❤8のレベルで気付けて良かったと思います。
あと、バズるのは良くない(かも)と主張しますが今の世の中SNSで成功するのって運要素が強いだろうし大なり小なりバズりを経ることで有名になっていきます。
僕は富と名声が欲しいですしいずれ有名になるつもりなので気をつけていきたいです。
僕は自分の発信を面白いと思っているので大衆的ではないとはいえ共鳴する人はかならずいます。僕は結構ピエロになりたくないので僕が大衆に能動性を持つのでなく大衆が僕に来てほしいです。
僕ができることはとにかくやることです。というかやるしかないです。
僕に着いてきたい人は着いてきてください、応援お願いします。
余談ですが僕は自身の発言に外れ値をなるべく出したくないので言語表現が割と好きじゃないです。
絶対なんて絶対ないので世の中は全てグレーです。例えば上の「外れ値を"なるべく"出したくない」ですが「外れ値を出したくない」で通用するはずです。他には「かもしれない」が多出するなど。
こんな些末な機微を強迫的に意識しているので僕の文章は冗長になりがちだと思います。
最後に太字のキモさを払拭しておきます。絶対性を否定すること以外絶対性を持つものは無い、です。
では✋
布団ちゃんさんの「黙祷は意味ない」を解釈する
布団ちゃんさんの発言に「黙祷は意味ない」というものがありますが概ね同意です。
「黙祷は意味ない」発言について解釈を施していこうかと思います。
述べていくにあたって僕は布団ちゃんさんではないですし配信者という加工された人格上での発言なので完璧な包括😊のなされた主張はできませんが概ね発言の真意は把握しているつもりです。
[概説]
某月某日配信中,東日本大震災の(主に)被災者に対する黙祷をしたのかというコメントに対して布団ちゃん氏が「黙祷は正直意味ないと思ってる」と発言。
その他発言を抜粋すると「黙祷を自主的にすることはない」「そもそも墓参りとか死者を祈る(弔う)行為も好きじゃない」など。に対してコメント欄で物議を醸し是非(非が大多)が飛び交うカオスとなった。
[解釈]
前提として大事になってくるのが布団ちゃんさんは自分が黙祷をするか否かという話をずっとしており、黙祷をしている他人に対してとやかく言うことは一切していないということです。個人の選択を尊重する旨の発言もされていますし。
つまるところ配信内で展開されているのはずっと布団ちゃんさん個人の死生観然り宗教観に過ぎないわけです。
布団ちゃんさんは死者を弔う行為は死者に対してなんの効果も持たな(科学的に証明できな)くて、大事なのは今生きている人がどう幸せになるかだと言います。
その通りだと思います。転じて布団ちゃんさんは自分の墓は要らないとも。
ちなみに墓参りという行為自体に意味無いという主張に強く同意はしませんが言っていることは分かります。ですが、墓参りという行為は無駄でも墓参りという行事(墓参りをする日)には価値があると思います。
ちなみに「墓参りが好きじゃない」という発言の「好きじゃない」の対象が「墓参り」
なのか「死者を弔う行為」なのかは汲み取れかねますが、どちらにせよこの価値観は幼少期から墓参りを強制されていた(らしい)という経験に基づいている部分があることを補足しておきます。
[布団ちゃんに対するコメントの反応]
先に述べた通り「黙祷は意味ない」発言に対する是非の割合は大半が非でした(体感)。
布団ちゃんの配信は己の思想はさておきとにかく布団ちゃんを叩きたいだけの人などがいるらしいので実質のところの世論を鑑みることは難しそうですが、それでも否定的なスタンスが殆どを占めていました。
正直話が通じない人が多くて見ていてイライラします。ネタに昇華できない💧
個人単位の主張と一般論的な主張を混同している人が多すぎる点と、(僕からしたら)愚かな主張を布団ちゃんさんに押し付けているように感じるコメントが散見されます。
余談ですが加藤純一さんを起点として彼に関わる配信者をまあまあ見てきましたが、
布団ちゃんさんとおえちゃんさんは特に知性を感じます。
ちなみに知性を全然感じないのははんじょうさんです。
知性を一言で表現するのは非常に難しいのですが、あえてこの場で限定的に定義するなら群衆心理に洗脳されていないか、判断が周りに流されていないか、です。
難しいのは知性を感じないと言ったはんじょうさんにも大衆より脳停止していないところがあるというところです。なので布団ちゃんさんとおえちゃんさんに対して見出している魅力は先述である、というふうに捉えていただきたい。
ps.もし死後の世界があったら黙祷してないことを超土下座するしもし追悼に効果あるならいくらでも{恐らく比喩}するという大事な主張も紹介したかったのですが余地がなかった💦
了
記事のタイトルに当たるところは了なのですが、本旨よりかは面白いと僕が思う話をあと少ししたいと思います。
[人間について]
せっかくなので布団ちゃんさんの配信を引用しますが黙祷→死後の世界について話している際、彼が自己矛盾するシーンがあります。
要約すると「死後の世界は無いと思ってる」が「死後の世界は在って欲しい」。
自己破綻しているように直感しがちですが、実はしていないと思います。
というのも人間は極端な存在ではなく常にアンビバレント、とまではいかずとも異なるベクトルの思想を兼ね備えているものです。
極端な一つしか持っていないのは機械か動物になります。
人間は動物が知性を持ち進化したもので動物の情動性と機械の論理性の狭間に位置する存在だと捉えます。そもそも中途半端な存在なのが人間です。
極端なことを言えば布団ちゃんさんの「死者に対して意味はない」も中途半端です。
そもそも布団ちゃんさんが幸せにしたい生者に意識があることの証明ができるのか。
哲学的ゾンビや水槽の脳、幸福のクオリアの共有など様々な壁に衝突します。
布団ちゃんの不可知論の極北がヒュームの懐疑論なんじゃないかって浅薄無知ながら思います。そんな感じで中途半端です。ですがそれが人間で、どこかで折り合いをつけるしかない。
それなのに人間が扱う言語(少なくとも日本度)は極端な二元論に陥りがちです。
「意味がない」と表現してしまったら逆の「意味がある」しか無いように錯覚してしまう。
整理されていないかもしれませんが言いたいことは言いました。
では✋
[参考 (黙祷に対して話しているシーン 時間指定あり)]
エルデンリング(キャラだけ作成)ネタバレ禁止←リハビリ | OPENREC.tv (オープンレック) 54:00~57:06
少し時間を潰すクズ | OPENREC.tv (オープンレック) 1:23:25~???
権威主義からの開放
大西拓磨さんと林修さんの共演している動画を見たのだが、「僕みたいな人は世の中にいるけど見つかっていないだけ」という言葉がなんかしっくりきた。
「IQはゴミ」という発言も理解したつもりでいる。でも、やはり僕の経験がIQと(僕の曖昧な基準に準拠する)頭の良さとの相関を認めてしまう。
僕自身が高IQじゃないので感覚が分からない。でもそれでいいんだと思う。
結局僕が恐れているのは自分と同じ主張の人がいなくて孤独が誤りでありそれが過ちのような錯覚を覚えているからであって自由でいいと思う(というポリシーすら他人によるものであるが)。
誤謬をゼロにしようとは思わない。が、にしても偏っているな。
話を戻すと大西拓磨さんのような尖っているけど大西拓磨さんほど社会に評価されていない人はたくさんかはわからないがいるだろう。
彼の異様なIQの高さと能力の尖り度合いを相関させて見ていた節があるがそれが少し和らいだ気がする。にしても露出している尖具合はすごいけどね。
堀元見さん落合陽一さんバトルが再発しているらしく、べてらんちサブさんが堀元見さん的なアイロニカル、あと構造的冷笑で一動画を構築しているのが面白い(テキトウな解釈入ってるかも)
ついでに落合陽一さんがおとなげ無く感情的になってるのも権威主義からの開放の助長となった。
べてらんちさんって面白いと思って良さそうなのに面白いと思ってなかったのですが、初めて面白い動画にあたって、その調子で雷獣さんの動画(友人おすすめ)も見てみました。
メタの連鎖がすごいですね。
動画冒頭は趣旨が掴みづらかったのですが、そのわかりにくさが僕の未熟ではなく雷獣さんが意図的に演出している稚拙さなのではと思うほどです。(割とガチ)
思うのですが はてなブログにしろyoutubeにしろ僕はこの規模で収まっていいはずがないです。世間に僕を認めさせたいのでやり続けるしかないです。
正直世にはびこる人気youtuberは大体同レベルのものは作れると思う。ちゃんと敵わないと思うのはブライアンチャンネルくらい。
雑にこなしている感の欺瞞があるやもしれませんがほぼ毎回ヒットするあれくらいクオリティの高い笑いを創るのは僕には無理と直感してしまいます。
久しぶりに楽しかったです。
では✋
エッセイ 虚脱
人生というコンテンツに飽きがきている。
なんて虚無なんだろうか。まずは原因を考える。
世の中大抵のコンテンツが面白くなくなった。あと軽く悟りを開いた。
数ヶ月前、突然僕は今まで面白いと思っていた物事を面白いと感じなくなった。
加藤純一氏のゲーム配信を久しぶりに見てみたら面白さを感じないのでフルで見れない。はんじょう氏も面白さを感じない。アニメも駄目。映画も駄目。noteも駄目。読書もそもそも本のジャンルが限定的だが駄目。展開に意外性がない。メタ視で漠然とだが包括できてしまう。
ゲーム配信とかは前の僕が後で見るリストに入れていたもので期待による厳選がされている。のでもともとつまらなかったものとも考えにくい。
ヲタクは美しいです。妄信的な熱意は対象が虚無であることを冷笑家から後ろ指を指されるがそこは正直どうでもいい。自分の世界の中で(大抵の場合)崇高なアイドル(偶像)に捧げる熱狂はなにもない僕からすると羨ましい。
冷笑家さん、野暮ですよ😅
理由1つ目の「世の中大抵のコンテンツが面白くなくなった。」章はこれで終わり。
次の「軽く悟りを開いた」について。
無理しなくていいやという気持ちが以前と比較してかなり膨張している。これは母親が焦って楽しいとたいして思っていないこともやろうと必死になっていた僕にかけた「やりたくないことをやっていたらそのうちやっていたことが嫌いになっちゃう」という言葉がきっかけ。別に僕はそうは思わないが当時の僕は許容する甘い言葉だったのでそれをきっかけに加速していった念がこれ。
なにか激しく焦ることがなくなりました。悟りというのは聞こえがいいですがつまるところ停滞なのでクソです。ややこしいもので焦って無理することはなくなったと言いつつここで終わりたくない、まだなにか行動したいという弱いが気持ちもある。
実際にその念の結晶がこの記事と捉えます。僕は文章を日常的に書いていた人間でもないし書かないといけないわけでもない。なのに今タイピングの所作にあるしましてやはてなブログというネットの太平洋に投じようとしているわけで、ただやるだけなら本来非公開でいいじゃないですか。リスクが伴うし。
ところで退屈な人生期にいた僕ですが2,3週間くらいは自慰行為以外のまともな現実逃避ができている時期がありました。
妖怪ウォッチ3をプレイしていました。面白かったです😊
妖怪ウォッチをプレイした後はゆゆうた氏の妖怪ウォッチ3のゲーム配信を見たり妖怪ウォッチのアニメを見てみたりしました。
妖怪ウォッチのアニメは見ていられます。キッズ向けアニメに振り切った予定調和丸見えの展開は面白みに欠ける筈なのですが、感覚は動物やVtuberの鑑賞に近い(恐らく)。ジバニャン然り可愛いキャラクターを見ていると幸せな虚無を味わえます。
また、展開が面白みにかけると言いましたが普通に面白いです。たしかに意外性はないのですが予想できる展開も演劇を持ってリアルに再現されると面白いものです。
飽きというのは未来がない状態のことですが、未来を頭で脚本で来たとてまだ展開の余地はあります。何回見ても面白いものとかって皆さんあると思います。
今日闇のあとに光ある経験を今までに何度もしてきたと女が言いました。
理解できます。その方程式を引用するなら今の僕の人生モノクローム期にいつか終わりが来て、活力的な僕が未来にいること、願います。何度願ったことでしょうか。願います。
今日は人と会い刺激を少し受け活力的になりました。はてなブログも今執筆しています。活力的な僕は速くなりがちです。歩いていた僕は早歩きをせざるを得ないメンタルになりました。
ですが受験期の僕は家でも予備校でもスーパーでもずっと走っていました。まだまだ。
もう終わりの感じを出したつもりですがまだ喋ります。
愚痴。ゆゆうた氏の妖怪ウォッチ3配信は見るに堪えないシーンがたまにあります。
例えばキャラクターの命名シーン、オープニングの天皇陛下万歳など、僕のセンスとは合いません。悪い方向性で尖った言葉を多用して、その有り様はキッズ商業です。
youtubeのキッズ商業を脱却したかと思いきや配信の土俵においてもただ悪く過激な要素を好む視聴者を集めることをしている。youtubeの淫夢などは恐らくピエロですが配信は素でオモシロイと思ってやっている感も少し感じます。
ゆゆうた氏の実況を見ていて一番面白かったのはひらがながたくさん打たれるシーンです。(再生したら指定の箇所から流れる設定👇数分間なので是非視聴)
配信内で出てきた短い言葉に視聴者が大量に反応するという風習があるのですが、僕は短いひらがなをとても面白く感じるので大好きです。
知恵遅れみたいにプリミティブなひらがなに一斉に反応を示している有り様がなんだかとても面白いです。群盲が象を撫でている可愛らしい稚拙さ?がある。
あと妖怪ウォッチの関連で話すとえんえんトンネル、えんえんあぜみちは僕は大好きです。好きの分析なんて詭弁ですがえんえんあぜみちの良さを語る記事をかいてみたいです。
では✋