本記事は、はんじょう氏の視聴者であることを前提に話が進められることを理解の上読んでもらいたい。
「はんじょうとは」について考えていこうと思う。
「はんじょうニヤニヤCH」というはんじょう氏のmadを投稿しているYoutubeチャンネルがあるのだが、2025/6/25に「はんじょうとは」という動画がプレミア公開予定であることが観測出来る。
この「はんじょうニヤニヤCH」氏と本記事は関係ないが、僕が「はんじょうとは」を考えようと思ったきっかけになったので触れさせて頂いた。
若干ネタバレになってしまうが、「はんじょうとは」に対する解は無限に存在する。
私が生きている限りは。厳密に言うならば私が認識している間は。
何を言っているかは読んでいけばわかるだろう。
様々な答えを用意したので楽しんでもらいたい。
・はんじょうとは「配信者」である
そもそも配信者とはなにか明らかにしておきたい。
「配信者とは、テレビ・ラジオ・新聞・インターネット回線などの通信媒体を使って情報を配信する人の事を指す。」(ピクシブ百科事典より)
(正確な引用では無いかもしれないが、小規模なブログなので許してほしい😢💦)
はんじょう氏はtwitch,openrecやYoutube等サイトで配信活動を行っているので上載の配信者の定義には当てはまる。
また、彼は配信活動で収益を得ているし、恐らくその配信者としての収入で生活をしているのでれっきとした配信者だ。
はんじょうとは「配信者」であるといっていいだろう。
いきなり自明な事実に対して定義などを持ち出し話を展開していく様子に読者はイラついただろうか?本記事はそんな面倒くさい記事なので覚悟して頂きたい。
・はんじょうとは「ヒーロー」である
ヒーロー(hero)とは勇者や英雄を指す言葉である。
僕の知っているはんじょうは勇者、英雄といった言葉で形容できるような人物ではない。だが、日本語とは素晴らしいもので
「レトリック(修辞学、美辞学)」という概念がある。
今回焦点を当てるのはレトリックの一つの「誇張法」だ。
その名の通り、誇張法は物事を大げさに表現することで受け手の心により強く訴えかける技法だ。
例えに最近の言葉を挙げるなら「神」がそうだろう。
本来神は絶対的存在を意味するものとして使われることが多かったが、最近(?)は「神がかっている」や「神ってる」などまた違った意味合いで使われることがある。
「神がかっている」の「神」は絶対善といったものではなく「すごい良かった」程度のことでも使われるだろう。が、「神」という莫大なエネルギーのイメージを持つ言葉をあえて使うことで言葉に面白み、重みが生まれるのだろう。
「今日の配信はとても面白かった」よりも「今日の配信は神回だった」
のように言葉を選択することで文章が一段階"良く"なる。
話が大きくズレてしまったが、こんな感じだ。
せっかく「はんじょうとは配信者である」と証明したので使ってみよう。
彼は配信毎数千人、ときには一万人もの人を集めるのだが、そんなに人が集まるのは面白いからであり、当然面白いコンテンツには笑いが生まれる。
婉曲的になってしまったが、要するにはんじょう氏は沢山の人を笑顔にさせているのだ。
一般的に勇気ある行動を取ったり、人に勇気を与える人のことを指す。
人を笑顔にさせることと人に勇気を与えることの共通項を見出し、誇張法的につなげることは出来るはずだ。
彼の視聴者の中には配信を楽しみに仕事や学校生活等苦痛を乗り越えようと思っている人がいるはず、このポジティブな動機を与えている点で共通している、といえないだろうか。
・はんじょうとは人である
そういえば、「はんじょうとはヒーローである」ことを証明した際、僕は彼が人だと思っていたし、それを前提に話を進めていた。
ソクラテスも言っていたように物事を説明する際、説明する者はそれがなんたるかを説明できるべきだ。「説明できるべき」までは僕は思わないが物事の再確認は大切なので「人とは何か」をまず明らかにしよう。
といっても人間の解釈は多様に存在するので困った💦
「1+1=2」問題が難関なのと同様に物事の証明で難しいのはその問題自体ではなくその問題の前提となる公理を安定させるのが難しいんですねー
まじで困った(笑)
繰り返す内容になるが、人の解釈は多岐に渡る。
とりあえず様々な「人」の在り方を洗い出してみよう。そしてひとつずつ証明していけばよい。
①ホモ・サピエンスとしてのヒト
余談だ。地球上には黄色や白黒(茶)など様々な肌色があるけれど、それらは全てホモ・サピエンスなんだ。生物学的には地球に人類は一種類しかいない。肌色なんて愚かな記号で優劣をつけないでね😢
②知能が高く、言語を有し、社会生活を営むモノとしての人
こんな感じだろうか。否、もっとあるのだが「こんな感じ」にしておきたい。
①ホモ・サピエンスとしてのヒト
ホモ・サピエンスについて調べていたら現生の全人類どころか旧人以降のカセキジンルイは全てホモ・サピエンスに分類できるということがわかった。
だからといってはんじょう氏がホモ・サピエンスであるという完全証明にはならないが、見切りをつけることも大切だ。
②知能が高く、言語を有し、社会生活を営むモノとしての人
ここで指す「知能が高い」は人全体が土俵になっているため、議論すべきははんじょう氏の知能ではなく、人の生物界における知能の高さだ。そして、それは自明だ。
また、はんじょう氏は日本語話者であるし英語も少しは読むことが出来る。
3つ目の特徴の「社会生活を営むモノ」とあるが彼は引きこもってゲームをしては叫ぶだけの人だ。社会的生産性がない彼は社会生活を営んでいると認めていいものだろうか。
はんじょうは人ではない🤔❓、、、、、、という冗談はさておき。
ここで指す社会生活とはそんな厳しいものと捉えなくていいだろう。
現代社会(少なくとも日本)では引きこもっているニートや痴呆の高齢者なども人としてカウントされている。ので何かと関わっていた、いることは社会生活とカウント出来るのだろう。
もしくは、社会生活を営んでいるか否かでは上記の人?らは人ではないのだが、人体を有していたり、ホモ・サピエンスだったり、言語能力があったり、と他の項目がだいたい当てはまっているからとりあえず人として認めているだけなのだろうか?難しい問題だ。
一部微々たるところで怪しい箇所もあったが、そもそも私達がはんじょう氏を直感的に人と捉えているので恐らく彼は人なんだろう。やっとQ.E.D.だ。
・はんじょうとは「賢者」である
はんじょう氏を知る方なら困惑しただろう。
証明不可、に感じるかもしれないがこれの証明は簡単だ。
砂山理論をご存知だろうか?
これと本質的には同じ理論で「ハゲのパラドックス」というものがある。
そちらのほうがユーモアがあって理解に易いかもしれないのでハゲパラの方の解説をしよう。
磯野波平氏をご存知だろうか?大体の人が知っているだろう。
僕は名前が思い出せなかったので「サザエさん 父」と検索してこの画像を持ってきた(若い人間アピール)
彼は言わずもがなハゲだ。
では、彼に髪の毛を1本足したらどうだろう? ハゲだ。
では、もう一本足したらどうだろう? ハゲだ。
では、もう一本足したらどうだろう? ハゲだ。
では、もう一本足したらどうだろう? ハゲだ。
では、もう一本足したらどうだろう? ハゲだ。
・
・
・
ハゲに毛を一本足してもハゲはハゲのままだ。がしかし、この作業を10万回繰り返したらどうだろう。
波平氏はハゲではないだろう。
では、どこを起点にハゲがハゲでない状態に変わったのか。
我々は髪の毛が5万本以上ならハゲ、といった基準を設けていない。が、基準は必ず在るのだ。
ハゲのパラドックスが訴えているのは、こういった人間の認識の曖昧さ、相対的な感性だ。
要するに全てはグラデーションなのだ。明暗も、陰陽も、貧富も、美醜も、発達障害だって。
認識は全て相対的なものだということを意識してほしい。
以上を理解したことを前提に話を戻そう。
「はんじょうは『賢者』である」
この議論で着目べきは「賢い」だろう。
まあ、この問題は誇張表現で感覚的に解決されているのだが、折角なので「全てはグラデーション理論」つまるところ「相対主義」の思想で解決したい。
はんじょう氏は関係者殆どから白痴の人間だと思われているに違いない。
しかし、この賢いか賢くないか、この基準、認識も相対的なものである。
環境づくりは多様に存在する。
彼を白痴と思わせる理由、環境を踏まえて否定形にすればよいのだ。
例えば、社会人の物差しで彼の知能を測っているから、彼を勉強の才能で測っているから相対的に馬鹿になってしまうのだ。
なので、比較対象を子供や赤ん坊、なんなら魚類にしてしまえば彼は賢い存在として認められるし、スプラトゥーンの上手い下手で能力を測れば彼は優秀になる(賢いとは少し違ってしまうが、、、)
理論上は全てのものは全てになる可能性を内包しているのだ。
・はんじょうとは「ハシビロコウ」である
はんじょう氏は配信上で顔がハシビロコウに似ているため、ネタ的にハシビロコウと言われることがあるが、僕は本気で彼がハシビロコウと証明しようと思っている。
ここから理論の飛躍?暴走?が一気に加速するので頑張ってついてきてほしい。
そもそもハシビロコウとは何か?この問いは今までの定義云々とは性質が異なる。
僕は認識が存在に先立つと思っている。というか、これは証明も反証も出来ない。
ハシビロコウの話は一旦おいておいて、「認識が存在に先立つ」問題を先に説明し終えたい。
現在の科学(古典力学)は「存在が認識に先立つ」の立場を取っている。
例えばりんごがあるとしよう。
このりんごは私が認識している、いないに関わらずここに在る、というのが「存在が認識に先立つ」(存在が認識の先にある)ということだ。
そして、僕の意見では
このりんごは私が認識しているからここに在る。
これが「認識が存在に先立つ」だ。
読者はどちらの意見を推すだろうか? 殆どの人が「存在が認識に先立つ」要するに現代科学の方を選ぶのだろう。
一つ勘違いしてはいけないのが僕は決して「存在が認識に先立つ」のが絶対だと信じているわけではない。
僕がしたかったのは、読者の思考の可能性を増やしたかったのだ。
この議論に(恐らく)是非はつけられない。「どちらもあっているし間違っている」が答えだ。「今の人類ではどちらが正しいか、間違えているかを証明できない」と言ったほうがわかりやすいだろうか。
ちなみに現代(一般的な)科学、つまりは古典力学では「存在が認識に先立つ」といったが、「古典」力学とあるように近年新しい科学が認められている。
それは量子力学。この世界観では「認識が存在に先立つ」が認められているんだ。
実感がわかないと思うので「認識が存在に先立つ」の身近な例を踏まえて説明してみよう。
例えば、ここに机があるとする。
この机を私達は様々なしがらみ(例えば言語、常識、机の前に椅子が踏まえてあるという環境など)によって机を机としか認識していないが、この机は座ることもできれば人を殺める道具としても使える。
要するに机は「机」という言語に閉じ込められているだけで、椅子にもハンマーにもなり得る、なる可能性を秘めているということだ。
「色即是空空即是色」という言葉があるだろう。あの言葉はこの性質を表している。
アリや赤ちゃんを想像してほしい。あれら彼らは果たして「机と呼ばれているもの」を机として認識しているだろうか?
もう一つ例をあげよう。
ここにレンガとピラミッドがあるとしよう。
我々人間の大人はピラミッドを世界遺産だなどと単なる大レンガの集積に価値を見出しては意味のない(いや、意味はあるのだが)馬鹿騒ぎをしている。
そして、またアリを想像してほしい。先程と同様にアリはピラミッドもレンガも同様に足場、地面としか認識していないだろう。いや、これも人間である僕の解釈で実際は分からないが。
このように我々が認識することで価値や意味、様々なものが我々によって生み出されている。「認識は存在に先立つ」について理解が出来ただろうか?
我々は「机」や「ピラミッド」など視覚的な凹凸に意味を見出しているが、本質的には全ては空虚で区別などつけなくてよいのだ。
さて、以上の話は「はんじょうはハシビロコウである」を証明するために作られたものだ。話を戻そう。
ここまで読んでくれた読者諸君ならもうこんな問題、証明は容易いのではないか?
というか、言葉で順序立てて証明する必要性すら失われた。
例えば、「はんじょうは人と呼ばれる本質的には空間の歪みだ。
ハシビロコウも同様に空間の歪みに過ぎない。」というように。Q.E.D.
・はんじょうは「宇宙」である
もう読者が好きに証明してくれて構わないが、僕だったら相対主義理論を使ってこう証明する。
はんじょうの肉体は絶対的な形を有していない。彼の肉体の認識は相対的だ。
はんじょうの肉体を血を含むものと定義するならはんじょうの血液成分が含まれた息を吸い込んだはんじょうの母親ははんじょうだし、同じ空気を共有している筆者もはんじょうである。空気を共有しているならば日本国がはんじょうだし太平洋もはんじょうだ。なので地球ははんじょうだし、太陽系も、ブラックホールも、銀河系も、超銀河団もはんじょうだ。
はんじょうは宇宙だ。
・はんじょうとは「تيار الموحلة」だ
もはやはんじょうを言語の枠に捉えることすら愚行だ。
تيار الموحلةはアラビア語で「濁流」を意味するがそんなことはどうでもいい。
なんせはんじょうは酒池肉林なブギーポップで豚の尿石が加藤純一の殴り書きとして規律したまんにゅうが陥没し理性的に解釈された母親の自慰行為と盲目007うるさい!母の露わになった胸を見つめる息子りんご赤茶子白痴ですか?だせえよ洞窟の眼差しイデアはもう死んだ徒弟ゾンビは8:30に漸くピーターパン・サタンシンドローム着地0時イレブンおれ様が俺様が俺様gおれsまあまおれはさまがおあkroreamaooおrewamなはんじょうがはんじょうしてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじょうしかしはんじょうが似や良いやはんじょうgamaooおrewamなはんじょうがはんじょうしてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじょうしかしはんじょうが似や良いやはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじょうしかしはんじょうが似や良いやはんじょうgamaooおrewamなはんじょてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうにはんじてはんじょうしてはんじょうははんじょうはははははんじょうはんにょむにはんじよむ
「ㇶ
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なのだから。
・(冗長?)はんじょうは「無ではないモノ全て」だ
「はんじょうは宇宙である」で終わったほうが良い気がしますが面白い話題なので少し続けます。
絶対的、最強かと思われたはんじょうですが、一つ人類の生み出した足枷により克服できないものがあります。
人類の生み出した足枷とは言語です。
最強はんじょうですが、無になることは不可能です。
はんじょうは絶対的存在になることは出来ないんですね。
なぜかというと、「絶対的存在」という存在自体が誤っているから。
そもそも絶対的というモノを我々が認識できている時点でそれは絶対的ではないんです。
なので、絶対的存在は「無」しかありえないという「存在しない」という「存在」が絶対的なものなんですね。
太字の時点で自己矛盾していることがわかります。
よって、はんじょうは「無ではないもの全て」なんです。
厳密には「全て−1」ですね
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
詭弁に詭弁を重ねていましたが哲学ってそんなもんなんじゃないかって思います(怒られそう😢)
正しければ正しいほど納得がいかなくなる。人間っていうのは正しくない生き物なんだろう。
なんてね。🐮では✋